ダーク ピアニスト
―叙事曲1 Geburtstag―

第6章


 「ギル! あったよ! 見て! これがドイツの旗で、こっちが日本の旗だよ。そうでしょう?」
グランドの向こうからルビーが息を切らして駆けて来た。
「よし。それじゃ、今度は向こうのサッカーゴールのところにあるイギリスの旗を取って来るんだ。わかるな?」
「うん。わかった。ぼくね、アメリカとフランスの旗だって知ってるんだ」
「そうか。じゃあ次は、あのハードルを越えた所にあるフランスの旗も取って来い」
「うん。取って来たら、今日はイギリスの旗をくれる?」
「ああ」
「それじゃ、ぼく、すぐに取って来る」
そう言ってルビーはまた勢いよく駆け出して行った。

単調な基礎訓練はすぐに飽きてしまって続かなかったが、こうして少しの工夫を加えれば進んでそれを実行する。正確に距離を測って置かれた旗を取って来るのはルビーにとっては面白い遊びだったようだ。そして、彼はその遊びに夢中になっていた。更に、工夫はそれだけではない。遊びと称してありとあらゆるスポーツが複合的に取り入れられ、筋力強化プログラムは進行して行った。と同時に、文字や数字の認識から各教科の基礎知識までじっくりと時間を掛けて教えて行く。組織で生き延びるためにはどうしてもクリアしなければならない課題が山済みだったのだ。

「アインツ、ツバイ、ドライ、フィーア、フンフ、ゼクス……」
ルビーは毎日一つずつもらえる旗を数えて満足した。褒美は旗ばかりではなく、進歩の具合に応じて菓子や玩具がもらえることもあった。それでも、訓練は厳しく、要求されたことが上手く出来ずに暴発することもしばしばだった。しかし、ルビーにとって身体を動かすことは楽しかった。ボールや道具を使った遊びは好きだったし、ダンスや護身術の訓練は興味深く、新鮮でもあった。

「ねえ、次は何をするの?」
「これを持って走るんだ」
長いリボンの先端が地面に着かないように走る。リボンの長さはだんだん長くなり、難易度を上げて行く。それから、ルビーの好きなかくれんぼの応用。完全に気配を消して身を潜める、ルビーの言うところのかくれんぼもした。
「わあ! まるで忍者になったみたい! ねえ、これを続けていたら本物の忍者になれる?」
「そうだな。おまえは日本の血も入っているのだから、ちゃんと訓練を続けたらなれるかもしれないぞ」
ルビーはそれを聞いて喜んだ。そして、訓練に勤しんだ。


 夏になると水泳もカリキュラムに加えられた。そこはグルドの訓練施設の一つ。邪魔者は来ないので心置きなく練習できる。
「ぼくね、いつも夏には母様や父様と海に行って泳いだの」
ルビーはうれしそうだったが、その身体のあちこちにある傷が痛々しかった。ケロイド状に盛り上がったそれらを完治させるのは難しいと医者が言った。ギルフォートはそっと目を伏せたが、ルビーはあまり気にしていないようだった。

「よし。取り合えずタイムを測ろう。得意なもので構わないからまずは25メートル泳いでみろ」
「わかった。でも、浮き輪は?」
「何?」
厳しい顔で問い返す男を見上げていたルビーは僅かに苦笑してぼそぼそと言った。
「あれがあると面白いの。他にもビーチボールとかゴムボートとかで遊ぶの」
「練習が済んでからだ」
あとで遊んでもらえるのだと期待して彼は頷いた。
「わかった。あそこから飛び込むの?」
ルビーがコース台を指差す。
「そうだ」
それを聞いて彼はすっかり気を取り直すとうれしそうな顔をして言った。
「わあ、ぼくね、一度やってみたかったの」
ルビーは喜んで走って行くとそのままの勢いで水の中へ飛び込んだ。
「また、準備も何もなく……」
慌ててストップウォッチをスタートさせると水面を見つめた。が、様子が変だ。子供は沈んだきり水面に浮かんで来ない。
「まさか……」
ギルフォートは羽織っていた上着を放るとそのまま水中に飛び込んだ。

「馬鹿野郎! 泳げないのに飛び込む奴があるか!」
溺れかけていた子供を救い上げるとプールサイドで彼は怒鳴った。
「だって、ぼく、できると思ったの……。それに、一度あそこから飛び込んでみたかったんだもの」
噎せ返りながらルビーが言い訳する。
「もういい。これから練習してちゃんと泳げるようになればいいから……」
「泳げるようになれる?」
「ああ。まずは水に慣れることだ。来い。まずは水面に顔をつけて身体を浮かす練習だ。それから水中に潜ったり、足を動かして前に進む。慣れたら、水の中で鬼ごっこをして遊んでやる」
「わあ! 本当?」
ルビーは喜んで付いて行く。

そうして、はじめは何も出来なかった彼もどんどん高度な技を獲得し、驚く程効果を上げた。ルビー自身、それまで鬱屈していた自由への欲求と身体を動かして外に出たいという願望が満たされて満足し、指導する側のギルフォートにしても、自分が考案し取り入れたプログラムが次々と成功し、予想以上の効果を上げて来るのでやり甲斐のある仕事になっていた。


 「あら、可愛いお人形ね」
エスタレーゼが学校から戻って来て言った。
「うん。今日は鉄棒で懸垂が出来るようになったの。それで、ギルがご褒美にくれたんだよ」
「ふうん。でも、訓練は辛くない?」
「大丈夫だよ。ギルは何でも出来てすごいんだよ。エレーゼもお人形が欲しかったらいっしょにおいでよ。上手くできたら、きっとギルにもらえるよ」
「ギルフォートに……?」
エスタレーゼは控えめに苦笑した。
「彼、怖くない?」
「うーん。平気だよ。あまり笑わないけど、いっしょに遊んでくれるもの」
「遊び……ね」
にこにことうれしそうに笑っているルビーを見ていると彼女もつい、頷いてしまいそうになるが、本当のところは違うのだと彼女は知っていた。

その脇で、ルビーは羊の人形を数えていた。何でも数えられる物は数えるという、ギルから出された宿題をルビーは忠実に守っていた。
「フンフ、ゼクス、ノイン……」
「ゼクスの次はジーベン、その次はアフトよ」
「あー、また間違えちゃった。えーと、アインツ、ツバイ……」
羊は全部で11匹いた。が、ルビーがその答えに辿り着いたのはそれから10分近くもあとだった。

その群れを緑の画用紙に並べて彼は言った。
「見て! こうすると本物の牧場みたいでしょう?」
「そうね。子羊もいて可愛いわね」
「でも、羊はみーんな死んじゃうんだ」
「どうして?」
「だって狼が来るから……」
そうしてルビーは狼の人形を持つと羊の群れを蹴散らした。そして、狼は子羊を捕らえるとその首筋に噛み付く。
「子羊を食べたら可哀想よ」
エスタレーゼが言った。
「だって、子供は一番弱いんだ。真っ先に襲われちゃうよ」
「ルビー……」
(そう。いつもそうだった……動物の世界も、人間の世界も、みんな……)

――だから、強くなるんだ

ギルフォートの言葉を思い出した。

――強く? そしたら、もう誰にもバカにされない?

男が頷く。光の中で彼の銀色の髪が針束のように美しく輝いていた。

――それじゃあ、ぼく、がんばるね


 そんなある日、ルビーがぽつりと言った。
「ねえ、ぼく、一つ欲しい物があるんだ」
「何だ?」
そよ風が心地よいすみれの谷へ続く道だった。
「銃だよ」
少年は、じっと正面から男を見つめて言った。
「銃? 水鉄砲か?」
「ちがうよ。本物の銃……。あなた、持っていたでしょう?」
「ああ……」
男の足元に咲いていた紫のすみれを愛でながらルビーは言った。
「父様も持っていたんだ」
「それでどうするんだ?」
風が彼の柔らかい黒髪を揺らして行く……。
「それで、今度こそ殺してやるんだ」
「誰を?」
ルビーはすみれを折ると胸に抱いた。そして、きっと前を見据えて言った。
「……父様を」
「おまえの父親は死んだんじゃなかったのか?」
ルビーの手の中ですみれも風に吹かれ、じっと耳を傾けている。
「多分ね……。ぼくが殺したから……」
「なら何故、それが必要なんだ?」
少年はぎゅっと拳を握ると感情を抑えて言った。
「だって、あいつはまだ夢に出て来るんだ。夢に出て、それで、何度も母様を殺すんだ。だから、もう殺せないように、ぼくがあいつを殺す!」
すみれの甘い香りに噎せながらその花びらにそっと頬を寄せて言う。
「いいだろう。明日、射撃場に連れてってやる」
「射撃場?」
「本物の銃を撃つための練習場だ。明日8時に迎えに行く」
そう言うと男は踵を返し、そのまま立ち去ろうとした。
「待って」
ルビーはそっとすみれを差し出した。
「紫はあなたに似合う」
しかし、男はそれを払い落とす。その足元に落ちた花弁は、それでも男の方を向く。それでもあなたが好きです、と……。ルビーは悲しい顔ですみれを拾い、そっと胸に抱いて言った。
「そこへ行ったら……何もかも変われる?」
「ああ……」

――それでも、あなたが好きです

と……。愛と憎しみが交錯する淡い紫の幻想の中、ルビーはいつまでも夢の扉の手掛かりを探していた……。


 そして次の日。彼らはそこにいた。
「これが本物の銃?」
初めて持ったそれは想像したよりずっと重かった。
(これがあれば、あいつを殺すことができるんだ……)
ルビーは黒光りする銃身を、その銃口を覗き込む。
「よせ! 死ぬぞ」
男が慌てて言った。
「死ぬの?」
ルビーは銃を下ろすと、唖然とした顔で彼を見上げた。
「死なない人なんか誰もいないよ。でも、ぼく、よくわかんないの。ねえ、死ぬってどういうこと? ぼくの母様は死んだんだって……。ぼくの父様も死んだ。大好きだったシュミッツ先生も死んだ。みんな死んだ。知らない女の子や大嫌いな院長もみんな死んじゃったんだ。ねえ、教えてよ。人は死んだらどうなるの?」
蛍火のような瞬間の時が二人を照らす。
「……死んだら、何もわからなくなるんだ。何も感じず、何も反応しなくなり……。やがて……」
男は表情を殺して言った。
「無になる……」
「無に?」
照明は瞬きもしない。彼らの間にあるものは、静寂と気が遠くなる程の時間と過去の記憶の波だった……。

「ねえ、そこには何かがあるの? それは光だと思う? それとも闇?」
「さあな。だが、多分……」
そう言って男は軽く目を伏せた。
「ぼくはきっとそこにあるのは光だと思う」
「何故?」
「わからない……。でも、そこにあるのが闇ならばあまりに悲し過ぎるでしょう?」
ルビーは薄く笑って、それからしくしくと泣き出した。
「本当に何も感じなくなっちゃうの? ぼくが話しかけても、大好きだったお花をプレゼントしても、もう、ありがとうと言ってくれないの? 何もわからないの? やさしかった母様の手は、もうぼくを抱き締めてくれないの? どうして……? ぼく、もう一度、母様に会いたいよ。会って、そして……」
「諦めろ」
冷ややかに男は言った。

「でも……。それならどうして……。死んだ人は寂しくないの? 寒くはないの? どうしたら、その人の心に触れることができるの? もう一度会いたい……。亡くした人達に……一度だけでいいんだ……なのに、それも叶わないの?」
「無理だな……」
ギルフォートはすっと遠い目をして頷いた。ルビーは泣きながら続ける。
「どうして? 母様は何も悪いことなんかしてないよ。なのに何故殺されなくちゃいけなかったの? 何も悪いことなんかしていなかったのに……とてもやさしい人だったのに……。いい人も悪い人も同じなの? それも同じ命なの? 何も悪いことなんかしていないやさしい人も、そのやさしい人を泣かせた悪い奴も、みんな同じ命なの?」
「ああ……」
「そんなの酷いよ。やさしさばかりを投げ掛けている人とその人を傷つけてばかりいる悪い奴が同じだなんて……。ぼくは納得が行かないよ。そんなの、ぼくは認めない! そんなの絶対に認めないんだ……!」
ルビーの構えた銃口から憎しみの弾丸が火を吹いた。と同時に、その反動でルビーは後方に弾かれ尻餅をついた。

「馬鹿野郎! いきなり撃つ奴があるか!」
ギルフォートが慌てて少年の身体を受け止め、手にした銃を取り上げた。
「わあ、凄い……。ぼく、こんなに飛ばされちゃった」
衝撃の強さに子供は驚いて目を見張った。
「勝手にロックを外しちゃいかん」
「どうして? ぼく、もっとやりたい」
男の手から銃を取り戻そうとする。
「だったら、ちゃんとルールを守れ。死にたくないならな」
「ルール?」
「そうだ。銃を正しく使えるようになれば、人の役に立つことが出来る」
「ぼくが? 役に立つの?」
「ああ。あれを見ろ。今おまえが撃った銃の跡だ」

標的に空いた穴を見てルビーが言った。
「すごい! ちゃんと真ん中に当たってる……」
ギルフォートが頷く。
「ねえ、それって上手く出来たってこと?」
「ああ。おまえには銃の素質があるかもしれない」
「素質?」
「そうだ。練習してもっと上手くなれば……実践で使えるようになるかもしれないぞ」
「実践って? 何をするの?」
「おまえが言っていたような悪人に制裁を加えることだ。この社会には、おまえが経験して来たような救いようのない悪共が平然と跋扈している。やさしい人間達の心を平気で踏み躙って憚らない。羞恥心のない人間のことだ」
「それをこの銃で殺すの?」
「そうだ」
「この銃がぼくの代わりに気持ちを伝えてくれる……。祈りを込めた弾丸のその一発で心臓を貫くんだ」
ふとギルフォートの手が触れた。銃のように冷たく熱い鼓動を感じた。

「ギル……。ぼく、強くなりたいよ。誰からも馬鹿にされない強さが欲しい」
「なれるさ。おまえなら……」
「ほんと?」
「ああ。今、そのためにおまえはいる。強くなって何がしたい?」
「悪人をやっつけるんだ。ぼくをいじめた院長も、ぼくを馬鹿にした偉いピアニストも、そして、大好きな母様を殺した父様も、みんなこの手でやっつけた」
ルビーはそう言って自分の掌を見た。
「けど、それは、銃じゃない。ぼくの心がそうさせたんだ。ぼくの中に眠る力が……。けど、ぼくはもっと確実に殺しておきたいんだ。もう二度とぼくの中に現れないように……この銃で心臓を撃ち抜くんだ」
振るえながら構える少年をギルフォートはそっと見下ろし、サイドに自分の手を添えた。
「出来るさ。だから、もっと強くなれ。決して折れない強い心に……」


 「お人形ちゃんと遊んでたって?」
「あの銀狼がままごと遊びやかくれんぼをしてるって?」
ここのところずっとルビーの訓練をしているギルフォートを皆が中傷した。
「ははは。非情な殺しで有名な天才スナイパー、ギルフォート グレイスも地に落ちたもんだぜ」
そんな囁きがルビーの耳にも聞こえて来た。
(銀狼?)
ルビーは改めて隣に立つ背の高い男を見つめた。短い銀髪に獲物を狙うような鋭い視線……。彼は確かに銀狼なのかもしれない、とルビーは思った。
(彼が狼なら僕は何なの? 自分では何も出来ない与えられるだけの羊なの? そうして、意思もなく、何もないまま食べられてしまう哀れな生き物……)

ルビーは外敵から守るように子羊の人形を抱えて外に出た。安全で広い場所に逃がしてやりたかった。
「ヘイ! お人形ちゃん何処行くんだい?」
彼の行き先を塞ぐように男達がからかった。
「そこをどいてよ」
ルビーが言った。しかし、男達はそんな彼をからかうように左右を塞ぐ。ルビーはキッと男達を睨んだ。
(こんな奴ら、僕の力を使えば簡単にやっつけられるのに……)
しかし、彼はギルフォートとの約束を思い出して留まった。

――むやみにその力を使うな
――どうして?
――その力はおまえを守ってくれるだろう。だが、使い方を間違えれば、おまえ自身を破滅させることになる。だから、おれが許可するまでは、絶対にその力を使うんじゃない。いいな?
――わかった

「へへへ。今日は狼さんは一緒じゃないのか?」
「手に持っているのは羊さんだね。いつもの淫乱ウサギはどうした? もう飽きたのかい?」
子供の手から無理に人形を取り上げて言う。
「だめだよ。お願い、返して」
しかし、男達は笑いながらそれをばらばらにして茂みの中へ放り投げてしまった。
「あー、ぼくの羊が……! 酷いよ! 返してよ! 可哀想なぼくの羊を返して!」
ルビーが男達に詰め寄る。と、無造作に突き飛ばされて彼は地面に尻をついた。
「あー」
とルビーが声を出して泣き出す。

「ちょっと! あなた達、そこで何をしているの?」
それを見つけたエスタレーゼが植え込みの向こうから叫んだ。男達は顔を見合わせると急いでそこを立ち去った。
「ルビー、大丈夫?」
駆けつけて来た彼女が声を掛ける。
「あいつらがぼくの羊を壊したの。ばらばらになって死んじゃったの。ぼく、あいつらを殺してやりたい」
「ルビー……」

それから、彼女も手伝ってくれて羊は見つかり、再び元通りの形になった。
「気にしちゃだめよ。あの人達、薬のせいで頭がいかれてるのよ」
「薬?」
ルビーが組み立てたばかりの羊を弄びながら見上げる。
「そうよ。相手にしちゃいけないわ」
「でも……」

 翌日、ギルフォートにも訴えた。
「みんなが僕のことお人形ちゃんってからかうんだ」
「そうか。だが、気にするな。おまえは、今に奴らとは一線を画する完璧なスナイパーになる」
「ほんと?」
「おれに最後まで付いて来れるならな」
「うん。僕、ちゃんとあなたに付いて行くよ」


 それから2年。ルビーが17才になった時だった。
「ジェラード、自分はその案には賛成出来ません。早計過ぎです。ルビーを実践に出すにはリスクが高過ぎる……」
ギルフォートが言った。
「何故だね? もう訓練は十分だろう。そろそろ奴も成人になる」
「しかし、彼はまだ未熟です」
ギルフォートは反論したが、ジェラードはルビーを実践に使うと決断し命令を下した。


 「いいか? あそこに積んだ缶の中で赤い印の物だけを撃ち抜くんだ」
「わかった」
ルビーの黒い瞳に光り目が強くなる。そして一瞬だけ赤く閃くとその手の先から思念波が飛ぶ。1つ2つ3つ……。それを今度は銃で試す。どちらも満点……。ルビーの射撃の腕は本物だった。数の計算は相変わらず間違えてばかりだったが、シューティングだけはずば抜けていた。
「これも一つの才能だな」
また当然のように満点を出すルビーにギルフォートが言った。
「どう? 僕、とっても上手になったでしょう?」
褒めて欲しくてルビーが振り向く。
「ああ」
と頷く男。

「次のパーティーにおまえを連れて行くとジェラードが言っていた……」
ギルフォートが言った。さり気ない言い方で、そして、決して逆らうことのできない口調で……。
「パーティー? 僕、パーティー大好きだよ。僕の家でもよくパーティーをしたの。その時には、お客さんがたくさん来て、母様は美しい着物を着ておもてなしをしたの。とてもきれいだった……。でも、僕は子供だったからいつも父様は時間になると僕を部屋に追いやってしまうの」
ルビーは少し不満そうに言った。
「そうか。だが、おまえはもう大きくなった。最後までいられるさ」
「本当?」
「ああ」
と言って男はルビーの頭をそっと撫でた。ルビーが笑う。撫でられるのは気持ちがよかった。だから、いつもそうして欲しかった。が、男は滅多にそんなことをしてはくれない。しかし、今は撫でてくれた。それがルビーにとってはうれしくてたまらなかった。

 「いいか? これがターゲットの男だ。よく覚えとけ」
ギルフォートが写真を見せて言った。
「誰?」
「ヨハン カーレブだ」
「ぼく、知らないよ」
「奴はEU諸国に幾つも子会社を持っている有名企業の黒幕の息子さ」
「黒幕?」
「会社を裏から操作している悪い奴のことだ」
「悪いの?」
「そう。黒幕である父親もそうだが、許し難いのはその息子の方さ。親の権力を傘に来てやりたい放題している馬鹿息子だ。レイプや窃盗、果ては轢き逃げ。奴のせいで倒産させられた企業や泣き寝入りした女は数え切れない。悪行の限りを尽くしていると言っても過言ではない」
「酷い奴だね」
ルビーが言った。

「それで? ぼくは何をすればいいの?」
「始末しろ」
「殺すの?」
ギルフォートが頷く。
「ぼくが殺さなくちゃいけないの? 何故?」
「そのために訓練を受けてきたんだろう?」
ルビーはじっと男を見つめ、それから顔を強張らせて言った。
「どうしてもなの? いやだよ。ぼく、そんなの怖い……!」
ルビーは僅かにあとずさった。そんな子供を見て、ギルフォートは軽くため息をついた。壁際に佇んで子供は涙を流している。やはり無理なのだと思った。
「誰かがその人のために泣いてるの?」
ルビーが言った。
「ああ」
ルビーは窓越しに飛ぶ鳥の陰影を見つめて言った。
「わかったよ。出来る。ぼくが悪い奴をやっつける」
しかし、その肩は小さく震えていた。ギルフォートはそっと少年の肩に手を置いた。温もりが伝わってルビーは少し心臓の高鳴りが収まるのを感じた。写真の男は微笑んでいた。地味な顔立ちに似合わない髭を生やし、派手な柄のネクタイに成金趣味の時計がこれ見よがしに輝いている。
「ぼくが殺す……」
言葉はどんよりと部屋の中に垂れ込めた。

(ぼくの知らないこの人を……。ぼくが……。殺して何も感じなくさせてしまう……)
それはとてつもなく恐ろしい気がした。と同時に、何でもないことだという思いもした。複雑で単純な善と悪との心を天秤に掛けた。
(どっちが重い?)
しかし、銀髪の男は何も答えてはくれない。
(どっちが悪い?)
おもちゃの手錠をカチャカチャさせてルビーはパトカーの青いランプを見つめている。
「どっちが正しい?」
おもちゃの兵隊は皆同じように前を向き、整列してミニカーが並んだ道路を行進して行った。